昨日の泥

けれど夕陽はお前と仲間の髑髏を映す

「楽しまなければいけない」という圧力

日記

年末ではあるが特に忙しくなった訳でもない。

"カジュアルな青いスニーカー"(出典:いらすとや)

昨日の北川ライブで聞いた話。靴のサイズが 30cm の人が数年前から店に自分が履ける靴の在庫がなくなったと言っていた。大手チェーン店が在庫管理の効率化を進めた結果、少数派が割を食っているのかもしれない。

山田問題

山田邦子問題の不都合な点は「審査員によって得点の幅が違うと、幅の小さい審査員より幅の大きい審査員の採点が影響を持ってしまう」この1点だけだ。「審査員によって誰を評価するかは違っているから悪くない」というのは全くもって当たり前の話でそれを山田問題だと思ってるのなら的外れもいいところだ。

極端な話、(そんなことはないが)他の審査員が90〜92点しかつけなかったとする。そしてひとりの審査員だけが(そんなことはないが)0点から100点まで幅広い点数をつけたとする。この場合、他の審査員の点数に関係なくひとりの審査員の点数で順位が決まってしまう。

これを防ぐためにこれまでは、明文化はされていなかったと思われるが、どのくらいの幅で点数を付ければいいかといった尺度があった。それは視聴者にもなんとなく伝わっていた。そこに今回「80が標準だと思っていた」という明らかにこれまでの採点基準を知らない審査員が参加してきたわけだ。

明文化されていないバランスの是非はともかく、それに対して無神経な人が乱入することで、基準を明文化しなければならないというのは仕方がないことなのかもしれないが、個人的には少ない規則で巧く動く仕組みの方が好みなので残念なことだ。

03

ウェストランドの長尺コントからの一連のネタは東京03だったのか。

テレビでしか知らないので単独ライブがどんな感じなのか知らないんだけど「最後の20分、長尺コント」「友情ほっこり終わり」「文章のタイトル」「タイトル不条理な文章」がその通りだとしたら私もいやだ。そんなライブ見たくない。テレビで見ているときの雰囲気が私にはちょうど良い。

一方、それが好きな人もいるだろう。ライブのチケットを買う人の棲み分けの精度が上がるという点ではウインウインじゃないかとも思う。

その他

バカ校長「皆さんがなかなか静かにならないので蟹を与えたら静かになりました」

最近気づいたんだけど「説明的」と「説明不足」は相反するものではなく、表裏一体の関係にあるのだよな。両者は欠点の背景にある心理が同じなんだ。

呪文のように「楽しんでプレーする」って言ってる人が、スポーツに限らずいらっしゃるけど、無理に「これは楽しいんだ」って自分に言い聞かせているようで見ていて悲しい気持ちになる。「楽しまなければいけない」というのも同調圧力のひとつだ。

原始人が好む「幅8のインデント」で書かれたコードを見ると発狂しそうになる。

毎年思うんだけど「♪ クリスマスは 誰にも やってくる」という歌詞の「誰にも」の部分って国内のイスラム教徒や仏教徒ゾロアスター教徒から抗議されたりしていないのだろうか。

ある事件の犯人がまだ捕まっていないという記事で "だが犯人は今も逃走を続けている" と書かれていた。逃走を続けているという根拠はどこにあるのだろう?捕まっていないだけで、捕まえたかったらいつでもどうぞと普通に暮らしているかもしれないじゃないか。それは逃走とは言わない。

「ネットの情報を鵜呑みにしてはいけない」に対して「大丈夫、詳しく書いてあるから」という反論が出てくるのは「詳しい情報は正しい」という思い込みがあるのだろう。その考えは「インチキや根拠のない情報を懇切丁寧に書く人なんかいない」という性善説に由来しているのかもしれない。

違法な行為をフィクションで表現する際に、行為に応じて公開対象となる人がゾーニングがされている。ただし、どんなにゾーニングしても公開してはいけない行為というのがあって、その区分というのを自分のお気持ちで主張する人というのが少なからずいて、だいたい避難の的となる。


それでは、また明日。