昨日の泥

けれど夕陽はお前と仲間の髑髏を映す

02月27日(金)

食事

朝食はなし。朝、北欧を覗いてみたけどパンがどれも大きい。他のパン屋さんも同様に大きいパンばかりだ。調度良い量を買おうと思ったらひとつしか買えないのだ。パンをひとつだけ買ってもいいんだけど、なんか悪いのでもう一つ買うか買うのを諦めることが多い。半分くらいになっていれば2つ買えるのにといつも思う。

昼食はセブンイレブンのちゃんぽん。関係ないけどセブンイレブンをセブンと略する習慣は死んで欲しい。うすら馬鹿にしか見えない。いや、言い過ぎたごめん。

フェイスブックツイッター

先に言っておくと、以下に書くのはまったく根拠の無い言い掛かりに近い疑問だ。もちろん「それをするな」って意図はない。自分はなぜそう思ってしまうのだろう?って話だ。

具体的に何に対してかを書かずに「腹が立つ」「やってられない」みたいな感情をフェイスブックに書かれるとなんかそれは違うだろうという気になってしまう。ツイッターなら全然OKだし自分も書いているけど、フェイスブックだとなんか嫌なのだ。実は昔からの知り合いにそのような書き込みが多い人がいて、それが我慢できずにミュートしている。しつこいようだけど、そんなことを書くなとは思わない。住所欄に電話番号が書いてあるのを見たような気分になるってだけのことだ。

たとえばこれが「具体的に書くには差し障りがあるんだけど、やってられないって気分だ」ならフェイスブックでも違和感はない。両者の違いは「コミュニケーションとして成立しているかどうか」だろう。ということは自分は「フェイスブックは読んでも自分にしか分からない感情を一方的に投げっぱなしにするのに相応しくない場所であり、ツイッターはそれが許容される場所である」と認識しているんだと思う。言い換えると、フェイスブックはコミュニケーションのための場所で、ツイッターは(コミュニケーションも可能な)垂れ流しの場所であるとぼんやり認識しているのだろう。

むしろ、異質なのはツイッターなんじゃないかって気がしてきた。