昨日の泥

けれど夕陽はお前と仲間の髑髏を映す

猫の頭をなでることが許されない世界の話

「A (よからぬことを)考える」「B 表現する(声に出す、文字で綴る、絵を描くなど)」「C 表現を自分以外の人間が参照可能にする(=公開する)」

この3段階の区別がついてない人がいるというのが嘆かわしいし、そんな人を相手に「どこからがいけないのか」なんて話ができるわけがない。

ただし、そんな人でもその先にある「D 実行に移す」と A〜C はさすがに区別がついてるようだ。

そこで穏当なたとえをしよう。「猫の頭をなでることが倫理的にも法的にも許されない世界」だと A 〜 D は次のようになる。

  • A「猫の頭をなでたいなあ」と思う。
  • B 誰もいない部屋で「猫の頭をなでたいなあ」と言ったり絵にしたりする。
  • C その言葉や絵を公開する。
  • D 実際に猫の頭をなでる。

前提としてこの世界では猫の頭をなでるという行為を見たり聞いたりすると不快になる人が大多数であるとする。

一般的には D はもちろん B や C も法や宗教で禁止されていることが多い。過激な思想を持っていたり自分の気に入らないものはすべて排除しないと気がすまない人は「A のような人間を矯正せよ」という考えを持っているかもしれない。ただそのことは C あるいは D の行動によって初めて知ることができる訳であまり効果は望めない。このことは B についてもほぼ同様で B 自体を禁止してもあまり意味はない。

C は実際のところもう少し細分化されていて、

  • C1 その言葉や絵を不特定多数の人に公開する。
  • C2 その言葉や絵を特定の集合に属する人に限って公開する。

の2段階があり、通常 C1 は無条件で禁止されている。C2 は例えば「実際には猫の頭をなでたりはしないけど、なでたいという願望を持っている人たち(愛好者)のコミュニティ」を対象に公開することで、こちらはおそらく人によって意見が別れやすいゾーンだろう。それは表現する人の問題だけでは済まなくて、表現の受け手であり表現者よりも数が多い愛好者コミュニティに属する人たちの行動も考慮する必要があるからだ。

C2 を OK とした場合、「特定の集合から漏れて不特定多数の人に公開されてしまう」「認識が甘く、本人は特定の人向けに公開したつもりでも誰でも見ることができてしまう」「表現だけでは満足できなくなった愛好者が実際の行動に移してしまう可能性がある」という問題がある。言い換えると C1 と D を誘発する可能性があることになる。

逆に C2 を禁止した場合は「表現があることで願望を代替していた愛好者たちが行動に移してしまう可能性がある」という点が挙げられる。こちらも D を誘発する可能性があるわけだ。

その表現を不快に思う度合いが強い人ほど「表現が行動を誘発する」と考える傾向があるのではないだろうか。結果としてそれは前段階である A や B から抑止すべきだという主張に繋がりやすい。

この「禁止しても許可しても誰かが猫の頭をなでてしまう原因になるかもしれない」というダブルバインドが問題をややこしくしているような気がする。おそらく人によって「表現が行動を誘発する」「表現が行動を抑止する」のどちらもありうるからだろう。

D の行動が取り返しがつかないものであるほど「どちらもありうる」は数の問題で済ませられなくなる。これはとても難しい問題だと思う。妥協点として「行動への抑止を強くする(罰則の強化・行動に移したことが見つかりやすくする等)」「特定の集合に属するためのハードルをあげる(年齢や資格等)」「不特定多数の人への公開が発生しないようにする」が実行されているが 100% の効果はあげられていない。

残念ながら完全な解決策はないのかもしれない。そのことが「面倒なことを言わずに A から取り締まれ」という人が現れる原因であることも心情的には分からなくもない。ただ、それは技術的にもコスト的にも大変難しいばかりか、先に述べたとおり実現できたとしてもあらたな誘発要因を発生させてしまう可能性があるだろう。猫には気の毒だが地道により良い方法を探って行くしかないのではないだろうか。