昨日の泥

けれど夕陽はお前と仲間の髑髏を映す

歌舞伎を見たことはない

数日前に見たテレビ番組に対する感想をフェイスブックに書いたんだけど、フェイスブックに書いたことは後から探しにくいのでここにも載せておこう。

がっちりマンデーで歌舞伎の特集をしていたのですが、歌舞伎というのはかなりシステマチックでありながらも、固定されている部分と役者による違いを出す部分がきちんと定義されていて、かつそれを関係者がみな把握していることで、最適化されているという印象を受けました。

演目によって演出も衣装も道具もパーツ化されていて、そのパーツの意図を演者だけではなくそれらをメンテナンスしている人たちも把握してるので、コミュニケーションに無駄がないのでしょう。プログラミングで言うと API の設計が良くて、API リファレンスがリッチな開発環境といったところでしょうか。

長い間消えずに残ってるというのは、そういうことなのかもしれません。柔軟であることはもちろん大切だけど、なにを以てして柔軟であるのかを言語化して共有できていないと柔軟であることは難しいのではないかと。

高校の同級生からすぐに「暗黙知形式知に変えることの重要性に似ているように感じた」とのコメントがついた。

そこで気がついた。役者は液体で他の人はその液体を流すための道を短期間でミスなく効果的に作るためのプロなのだ。ただいきなり液体とか言っても説明が面倒なのでこう答えた。

そう言われると腑に落ちます。「この演目のこの役はこういう人物であってこういう道具を使う」という知識と「この役者はこういう演出特徴があってこういう身体である」という知識をかけ合わせたところまで形式知に落とし込めているからこそ、そこに「今回はここをこのようにやろうとしている」という最小限の情報を流し込むことで毎回特徴がある公演ができるのかと思います。

これはいつも言ってることだけど、長く続いているのは昔の仕組みが良かったからではなく、良い仕組みを取り入れたものが長く生き残っているのだろう。